ひと肌

信長とゆかりの深い「武芸八幡宮」に行こう!~自然いっぱいの参道を、歴史に触れながら歩く~

織田家の三代の当主から崇敬を集めていた「武芸八幡宮」を紹介します!

こんにちは!関市在住の現役大学生ライターあみがお届けします!

織田信長とゆかりの深い「武芸八幡宮」に行ってきました~!

恩田さんといっしょに出発です!

今回は、武芸八幡宮のスペシャルガイドで、おそらく武芸川の住民でもっとも武芸八幡宮に詳しい「恩田正明(おんだまさあき)」さんにご案内いただきました!

上の写真で、恩田さんが抱えている「秘密のファイル」を特別に見せていただき、武芸八幡宮のすっごくコアなことまで教えていただきました(^^)v

今回のブログでは、武芸八幡宮がはじめての方むけに、その歴史や魅力、第一鳥居から本殿に至るまでの見どころを紹介しています!

あ!もちろん、武芸八幡宮に行ったことあるよ〜という方も、新たな発見(第二鳥居の社額の秘密ってわかります??)があると思いますので、ぜひぜひ読んでいただきたいと思います♪

 

織田信長との関係とは?

織田信長は、永禄10年(1567年)に稲葉山に移り城下の井口という地名を「岐阜」と改めました。

武芸八幡宮は、岐阜城からすると「丑寅」といって北東の方角に当たり、鬼門鎮護として、重要な位置を占めていました。

そのため、織田信長は、この地域の人心を治め、経済の繁栄を図るために「楽市楽座」を設けたり「安堵状」を出したりしました。

(安堵状については、後ほど詳しくご紹介します!)

 

ところで、みなさん、”金弊社”って何か分かりますか?

金色に輝く「金弊社」の文字

岐阜県には、神社を金幣・銀幣・白幣の3つに格付けする伝統があります。その中でも最上級の金幣社として認められているのがここ、「武芸八幡宮」なのです!

武芸八幡宮は、今から約1300年前の養老元年(奈良時代:717年)に、泰澄大師がこの地を訪れた時、大確命の伝説を聞いてみことを祀り、八幡神社として奉ったことが発祥とされています。

ご祭神は第15代天皇の応神天皇を神としています。

武芸八幡宮の参道は、第一鳥居からお旅所まで600メートル、本殿まで600メートル全長1200メートルあります。これは岐阜県で最も長い参道であり、拝殿前に3つの階段があることも他にはない、注目ポイントです!

 

第一鳥居

それでは、第一鳥居から出発です!

第一鳥居は、八幡地区の街の中にありますよー!

第一鳥居は、今から297年前の享保10年(江戸時代:1725年)に、現在の大阪泉市の石大工、野口加兵衛さんと辻本儀兵衛さんによって建立されました。

しかし、平成25年7月24日に社額が落ち、亀裂が発覚しました。それを受けて同年11月22日に、氏子のみなさんによって再建立が行われました。

第一鳥居のモニュメント

鳥居の近くには、297年前の鳥居のモニュメントも残されています。

実際に、この貴重なモニュメントを現地で見てみると、建立された当時の野口さん・辻本さんの熱い魂を感じ取ることができます!ぜひ訪れてみてください!

 

この第一鳥居には、一対の高さ4メートルもの永代常夜燈があります。

永代常夜燈

これは、今から208年前の文化11年(江戸時代:1814年)に建立されました。

しかし、明治24年(1891年)に発生した濃尾地震により倒壊してしまいました。

それを受けて1893年に相宮音次郎さんら106名の寄付金によって再建立され、その名前や村の名前が台座に刻まれています。

この第一鳥居にある常夜燈は、近所の方々によって現在も、毎日灯りが燈されています

 

御旅所(おたびしょ)

第一鳥居から600メートル歩いてきました!御旅所(おたびしょ)に到着です。

まずはこの”由緒版”をじっくりと見ていきますよ~!

由緒版で1,351年当時の配置図を見てみましょう!

この由緒版では、本殿がある奥の院までより深く知ることができます。

1,351年に再建された当時の武芸八幡宮の十二坊の配置図が、由緒版の左端に掲載されています。

また、こちらには御旅所の他に社務所があり、「春の例大祭花馬奉納」がこの境内で行われます。例大祭そのものは、一番奥の社殿で行われます。

御旅所(おたびしょ)
社務所

「花馬まつり」は、金幣社武芸八幡宮で毎年4月14、15日頃に行われる祭典です!(2020年、2021年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止になっています)

花馬まつり

勇壮な馬が背中に身に着けている縁起の良い花を、参加者で奪い合います。見事手に入れることができた花は、家の屋根に上げます。

そうすることで、落雷防止や家運が上がると言い伝えられています。

花馬まつり前日には、前夜祭が行われます。参道にある約90基の灯篭にロウソクが燈され、社殿の前ではかがり火が焚かれます。

かがり火に映し出された拝殿では、「ふいたふいた」の舞が行われます。

「ふいたふいた」の舞とは、氏子が3人1組になって、100年経過した獅子頭を被って”五穀豊穣”を祝うものです。

「ふいたふいた」と叫びながら拝殿をたたき回り、獅子頭が弱ったところを見計らって、それを1回ごとに取り静めて3回行います。

 

前夜祭は14日、本楽祭・御幸祭は15日に、どちらも本殿で執り行われます!

 

第二鳥居

続いて、第二鳥居に進んでいきますよ~!

第二鳥居。この日は紅葉が映えていました♪♪

 

さて、突然ですがここでクイズです!!!

 

第二鳥居の社額にご注目ください!!
第一鳥居・第二鳥居に共通するこの”社額”ですが、一般的な社額と異なる点があります。それは一体、何でしょうか?

 

分かりますか~?

中々難しいですよね、、、

 

では、

☆手のひらをご用意ください☆

ヒント:「八幡宮」の「幡」の文字を、手のひらで一度書いてみてください!

 

八幡の「幡」にご注目!!

 

 

正解は…”「幡」のノがない”でした!

分かりましたか~!?

 

実はこれには、”五穀豊穣”の願いが込められているのです!

「幡」の字の右側、番の「ノ」が無くなると、「米」と「田」の漢字になります。

「お米などの収穫が潤うように」などの願いを込めて、武芸八幡宮の社額はこのようになっているのです!

ちなみにみなさん、”五穀豊穣”の種類をすべて知っていますか?

米・麦・粟・豆・黍」ですよ!きちんと覚えておきましょう!

 

第二鳥居から本殿へ向かう参道

第二鳥居をくぐって、参道を歩いてきました。緑いっぱい、自然いっぱいの参道ですね!

この空間にいるだけで、心が清らかになっていくように感じます。

 

織田信長・信忠・信孝が出した安堵状

このブログのタイトルにもある通り、武芸八幡宮は”織田信長”とゆかりのある場所なのです。

 

永禄10年(室町時代:1567年)に信長は、稲葉山に移り、この地を”岐阜”と名付けました。

当時、武芸八幡宮は和紙の”森下紙”を特産とし、森下紙は職人から様々な商人へと渡り、主に公家やお寺が使う高貴な紙とされていました。(この森下紙は現在、日光東照宮でも使われています。)

森下紙は、公家やお寺だけが特定で取り扱う=買い占めの状況にありました。

 

信長は、楽市楽座を開き、地産地消を広めるために動いていました。

この状況を知った信長は、寺院や神社など特定の商工業者と結んで権利を独占し、他の業者の営業を制限していたものを廃止にする決まりを作ったのです!

 

それにより信長は、永禄10年(1567年)10月に、森下紙と武芸八幡宮・そして付近の住民を守るために、信長は「安堵状」を出したのです!

織田信長の「安堵状」

 

さらに、信長の長男「織田信忠」による安堵状が天正4年(1576年)12月、次男「織田信孝」による安堵状が天正10年7月に出されています!!

長男:織田信忠の安堵状

 

次男:織田信孝の安堵状

 

信長による安堵状が出された後、森蘭丸の父:森可成と坂井右近の連書状が出されました。

連書状には、「西方から異論が出たとしても、この制札がある以上心配することはない。武芸地域で何かあったら、岐阜城に申し付けよ」という言葉が綴られていました。

さらにその後、信長の長男信忠・次男信孝も安堵状を出しています。

現在、織田信長・信忠・信孝による安堵状が揃っているのは武芸八幡宮だけで、400年以上もの間織田家の栄光を守り続けてきたのです!☆大変貴重ですね☆

 

信長・信忠・信孝の織田家三代による安堵状と武芸八幡宮の深い関わり、学ぶことができましたか?

この武芸八幡宮と住民の暮らしを守るために動いてくれたこと、とてもありがたいことですね!

織田家三代による安堵状のレプリカを、武芸八幡宮の社務所で見せていただけることがあります。

もし、安堵状をご覧になりたい方は、事前に武芸川まちづくり委員会までお問い合わせ(0575-46-3611)ください。ぜひ貴重な安堵状をご自身の目で見てください!!

 

参道を歩きながら、たくさんの歴史に触れる

太鼓橋

まず初めに見えてくるのは、この”太鼓橋”

太鼓橋

この太鼓橋は、今から328年前の元禄7年(江戸時代:1694年)に、大阪府泉南郡の石工である石橋長右衛門によって建てられました。

神域を尊厳するための橋であり、祭礼の時に神様がお旅所まで向かわれる”渡還御”の時だけ使われます。大聖寺住職、法印和尚の筆書きが残されています。

太鼓橋に使われている石は、なんと、当時の人々が御嶽山から持ってきた石だそうです!

 

下馬標

下馬標(げばひょう)

”下馬標”と聞いて、何か分かりますか?

少し難しいですよね!

下馬標とは、「これより先に行きたいのなら、馬や籠から降りて歩きなさい」という命令が記されている標識のことです。

下馬標は、今から462年前の永禄3年(室町時代:1560年)に、織田信長によって建立されたと伝えられています。

実際に、第59代宇多天皇がここを歩かれる時も、ご自分の足で歩かれたそうです!高さは1.5メートル、幅は0.4メートルです。

書かれている文字は信長の字だそうです!偉大な存在である信長の書いた文字がここに存在すると思うと、心が熱くなりますね!!

 

随神門

太鼓橋と下馬標を超えると見えてくるのが、”随神門”です。

これより先は、神の聖域になります!

この随神門は、今から645年前の永和3年(北朝時代:1377年)に建立され、平成4年に再建されました。

「これより先は神の聖域で、邪悪なものの侵入を防ぐ」という意味が込められています。

 

武芸八幡宮の大杉

みなさん、ご覧ください!緑と自然いっぱいの参道に、ひときわ大きな杉があります!

樹齢1,000年とも言われる大杉

この大杉は、岐阜県の天然記念物に指定されている御神木で、目通6,7メートル・樹高38メートル・樹齢約1000年と言われています!!

樹齢1,000年と言われる大杉

迫力満点ですね!!!大きな杉が私たちを見守ってくれているように感じます!

なんとこの大杉、高さ30メートルまで枝がありません!高く大きな杉だと分かりますね。

 

大杉を囲う縄に賽銭が!

この大杉を訪れた方々が、写真のようにお賽銭を残していくようになっているそうです。実際に、私も大杉から大きなパワーが伝わってくるように感じました!

新たなパワースポットの誕生ですね!皆さんもぜひ、大杉の迫力と偉大なパワーを感じてきてください☆☆☆

 

手水舎

今から165年前の安政4年(江戸時代:1857年)に設置されたと言い伝えられている”手水舎”が見えてきました。本殿もすぐそこに見えます!

1857年設置の手水舎

この手水舎は、八幡山から水を引き、清浄水にふさわしいものです。清水が溢れていて、身も心も引き締まりますよ!

季節限定でインスタ映えスポットにも!

 

本殿の境内

さて、いよいよ武芸八幡宮の本殿の境内に到着です!

武芸八幡宮 拝殿

今から671年前、観応2年(北朝時代:1351年)に、森蘭丸の祖先にあたる森又太郎が、大社社殿を再興しました。

これを機に、武芸谷十ヵ村「八幡・小知野・谷口・跡部・宇多院・高野・平・広見・中洞・岩佐・稲口」の惣社とし、八幡宮と称して、崇敬がますます深まりました。

その後、今から156年前の慶応元年(江戸時代末期:1865年)に拝殿が焼失しました。

その時、武芸谷十ヵ村より多額の浄財の寄進により、加納の大工銀右衛門が施工しました。現在も、春の例大祭には武芸谷十ヵ村の代表の方を招待しているそうです!

拝殿東には、遥拝所・小宮社7社(出雲大社、塩釜神社、天満宮、白山神社、秋葉神社、須佐能神社、大鍬神社)が鎮座されています!

 

太鼓楼「鐘楼」(関市指定有形文化財)

太鼓楼(鐘楼)

武芸八幡宮の境内には、大聖寺という立派なお寺があったそうです。

十二坊を揃えていたという事と、多くの安堵状がこの大聖寺宛に出されている事から、格式の高い立派なお寺であったと考えられています。

しかし、明治の神仏分離令により、大聖寺は壊されてしまいました。しかし、太鼓楼「鐘楼」だけは、今でも残っており、武芸川町で最も古い建築物とされています。

 

織田家三代の安堵状と歴史の深い「武芸八幡宮」に行こう!

ここまで読んでくれた皆さん、ありがとうございます!

「武芸八幡宮」の歴史や、織田家三代の安堵状について紹介してきました。

が、、、

実際に「武芸八幡宮」に行ってみると、さらに歴史を肌で感じることができますよ~!!!

ぜひ皆さん、訪れてみてくださいね☻

 

Information

武芸八幡宮(むげはちまんぐう)

住所:岐阜県関市武芸川町八幡1712

アクセス:岐阜バス高美線 武芸八幡バス停より本殿まで徒歩約20分

(※お車でのアクセスが便利です)

駐車場:20台(社務所から北に80mほどの場所にあります)